破産すると債務を支払わなくともよいのか?-免責

⦿免責の裁定によってはじめて債務から免れる

破産宣告があっても当然、債務の支払を免れることができるわけではありません。

配当手続によって、債権者は全額の弁済を受けられるのではありませんので、破産手続が終了しても配当を受けられなかった額について、破産債権者は依然として債権を有し、破産手続き終了後は、強制執行することもできるようになります。

しかし、財産を有しているか否かとは関係なく、債権者からいつまでも追及されるのでは、債務者は破産申立をせずに、より財産状態を悪化させたり、又は経済的立ち直りの意欲をなくしてしまいます。

そこで、破産手続きによって弁済されなかった債務について、その責任を免除するという破産免責の制度が必要となります。

免責されると破産者は、配当弁済されなかった破産債権の残額について責任を免れます。したがって、破産債権者は、破産終結後、破産者に対し債権残額の請求を請求することができなくなります。

友人・知人からの借金は踏み倒すな!

金融機関や法人からの借入金とは違うのがこれらの借金です。

では、同じ借金なのにどう違うのか?

 この違いは一見分かりにくいかもしれません。

簡単にいえば、友人・知人からの借金というものは、感情が付いているものなのです。

「可愛がってやったのに」とか「せっかく世話をしてやったのに」とか、恨み、怒りが付いているお金なのですね。

それに対して金融機関や法人からの借金は、損得勘定の上でのお金です。

万一、あなたが返済できなくても、担当者が被るなんてことはありません。

そこに恨みなんかはそれほど強くないのです。

しかし、友人や知人たちは違います。

恨みを持った人たちは、「恩知らず」とか「助けてやったのに仇で返された」とかいう話や噂を世間に広めてしまうのです。

世間というのはこういった噂話が大好きです。あっという間に広がってしまうことになります。

ですから、借金はまずは出来るだけ友人や知人からのものは払っておきましょう。それよりもまず、事業資金を友人知人から借金しないことが先決です。

地球上では、人間も企業もすべて平等です

地球上では人間はすべて平等です。これと同じく、会社もすべて平等なのです。

職業に貴賎がないように、企業にも差別はありません。

物を作る会社があり、それを売る会社がある。

物を引き取り、配る会社もあれば、物が壊れたら直す会社がある。

また、物が売れなくなったら、新しいアイデアで新しい物を作る会社が出てくる。

売れたお金を集金する会社もあれば、代金を払わない人から徴収する会社もある。

つまり。どの会社が欠けても物事はうまく回らない。

役に立たない会社というものが無いとはこのことです。

再生は誰にでも、どんな企業でもできるのです。

しかし、稀に微妙な会社もあります。例えば闇金といわれる法律違反の条件で金を貸している会社がある。

法的には確かに悪い会社です。

しかし、その一方、銀行から金を借りられない人々が最後の手段として頼っているのもまた事実。

これはどう考えればいいのでしょう? もちろん闇金は違法です。

本当は決して利用してはいけません。 明らかに法律上はルール違反なのです。

しかし、明日の米が無い場合、それでも借りるなと言えるかどうか。

そういう会社が存在しているということは、何らかの存在意義があるということでもあります。

もっとも、闇金を行っている会社自身が、世の中の役に立っているという意識があるのかどうかですが・・・ 闇金のような金融機関からの借り入れがある場合の企業再生は、大変骨が折れる。このことは言っておかないといけませんね。

債権放棄してもらっても再生できない企業がある

これは、いくら債権者に債権を放棄してもらっても、結局のところ本人に経営を立て直すやる気がなければ何にもならないということです。

もし、あなたが病気になったとします。入院していくら薬を飲んで、注射を打たれても本人に治す直す気力がなければ決して病気は治りません。

なぜなら身体の基礎が強くならないからなのです。

また、事業の中身と権限などを変えなければ何にもなりません。

同じことの繰り返しでは決して再生など出来ません。

せっかく債権放棄してもらうのだから、この辺りを見直すことが大事です。

急に取引を打ち切られた

「風柳絮を吹けば毛毬奔る」(かぜ、りゅうじょをふけば、もうぎゅうはしる)という禅語があります。


風がさっと吹くと、柳絮(綿毛を持ったヤナギの種)が、綿くずのように飛び散る様子のことを形容したものです。

 

「柳絮」としては、風よ吹くな、と言ってみても、しっかりと柳の木に掴って(?)いたとしても、自然現象たる風の強さには勝てません。コロコロと転がり散るだけです。

人間社会にもこれと同様なことがたくさんあります。自分の意志ではどうにもならないことです。


例えば、取引先が倒産し多額の不良債権が発生した、親会社の意向で突然取引が打ち切られた、勤務先の会社が業績不良のため吸収され、その結果リストラが行われ、会社をやめなければいけなくなった等々、何れも自己の都合によってそうした事情を招いた訳ではないことどもです。

 

泣いても喚いても、事態が好転するわけではありませんし、事実を事実として受け入れざるをえません。


もがけばもがくほど深みにはまります。
自然界のみならず、人間社会も「風柳絮を吹けば毛毬奔る」ですから、時には、柳に風と受け流し、余りに、目くじらを立てないことが必要です。

再生は覚悟を決めた時に出来ている

これは再生すると決めた時に覚悟を決めるということですが、再生するには人任せではいけません。

自分で必ず再生するんだと決めるのです。本当にその気構えが出来ているのか? 

覚悟はあるのか? 女房、子供が付いて来なくてもやる覚悟はあるのか!?  

本当にこの気構えが出来ていれば、もう再生は出来たようなものなのです。

しかし、長年、社長なんかをやっていると、この覚悟がなかなか出来ないものなのです。

もしかすると女房は社長夫人という呼ばれ方に慣れてしまっているかもしれません。

そうなると、あなたが辞めたくても、反対されることでしょう。

子供にだって反対されるかもしれません。そういうプレッシャーに打ち勝つことが出来るかどうか――。

 そして、経営が危うくなった原因を決して他人のせいにしないこと。

多くの失敗した経営者らが、部下のせいだとか取引先に騙されたとか、債権者が悪いとかいろんな理由をつけて、自分だけが悪いわけではないと思っているのです。

そうではなくて、あくまで自分の責任だったと思わなければいけません。

 しかし、いったん、覚悟を決められれば、もうほとんど再生に成功したも同然です。

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{老田久之助の覚悟}

老田久之助は長岡藩藩士で殿の秘蔵人だった。

この久之助が心惹かれる藩士がいた。偏屈人として知られた鬼頭図書という者である。久之助は図書に会えば何か得るものがあるだろうと思いながらも、よい折りもなく年月が過ぎて行った。

そうこうするうちにある時、下城の際に久之助は図書の家を訪れる。

 久之助は、図書に会い、まず型どおりの挨拶をした。

「かねてより、お訪ねしたかったのですがつい、今までよい折がなかったもので」

「それならそう思ったときにすぐに来るべきであろう。

人の命は明日を待たぬぞ」  図書の言葉は厳しかった。  

久之助はその後、図書に問い詰められる。図書は久之助に問いかけた。

「さむらいのご奉公とは何か」  すると久之助は、 「一身一命を捧げるところから始まると存じます」 と、答えた。

図書は言う。 「口で言うのは易しい。いつ何時でも身命を捧げられるのか」 また、 「実際にそれを活かしているのか」  と追及する。

久之助は、 「それは口ではお返事のいたしようがありません」 と答えた。

普通なら、「そうしているつもりです」と答えるところだったろう。

 図書の追及は続く。 「武士の性根は剣に現れるから、真剣勝負にて、その性根をみてやる」 と言い出し、久之助は図書と真剣を抜き合わせる羽目になる。

すると、図書が言い出す。 「待て待て、立ち会いは明日にしよう」  

久之助は不思議に思う。なぜだろう。

何故、今、立ち会わないのだろう? 「……そこもとにも始末すべきことがあろう。

人に見られては困る文書、仕残した用、片付けなければならない物もあるだろう。

今宵、その始末をして来られい」  

図書のその言葉に、久之助はそうだ、そうだ、身の回りの始末をしないでは死ぬに死ねない、と思う。

そして、久之助は帰宅すると夜半過ぎまでかかって、身辺を片付ける。

これで死んでも悔いはない、そう思ってひと眠りし、水浴びをした後、定められた時刻に再び図書宅に向かい、立ち会おうとした。すると図書はその必要はない、といって飯をご馳走してくれる。  

しかし、真剣を抜き合わせはしないが、図書の久之助に対する一言一言は相変わらず厳しい。

「……お主君のため、藩のためには、いつ何時でも死ぬ覚悟だ、と口では誰でもそう言うが、家常茶飯、事実の上でその覚悟を活かすことは難しい。

昨夜、そこもとは身命を上に捧げたと言った。おそらくその言葉に嘘はないだろう。

覚悟もたしかなものに違いない。

だが、実際にはその覚悟を活かしてはいなかった。

……他人に指摘されて、急ぎ始末をしなければならぬような物を、身の回りに溜めておいた。死後に発見されては身の恥になるような物さえ、始末せず、ただ覚悟だけでいつ死んでもよいと決めたところで空念仏にすぎない。そうではないか」

 さらに、 「いま庭先で、すぐ相手をしようとそこもとは言った。

これは身の回りをきれいに始末してきたから、もう死んでも悔いはないという気持ちなのであろう。

それでこそ初めて『いつ何時でも命を捧げる』ということが出来るのである。さむらいの鍛錬は家常茶飯のうちにある。拭き掃除、箸の上げ下ろし、火桶への炭のつぎ方、寝ざま起きよう、日常生活の中に性根の鍛錬があるのだ。

そのような油断がなければ、改めて覚悟せずとも奉公の大事を誤ることはないのである」

 以上は山本周五郎の短編『油断大敵』からの引用である。

これは昭和二十年の作品。国民すべてが明日をも知れぬ状況であったから、老田久之助に「死の覚悟」を求めることが出来たのであろうか。

「死の覚悟」とまでいかなくても、起業再生、人生の再生を願うなら、せめて普段とは違う「覚悟」をしてもらいたいと思うのである。

再生とは自己の心象風景である

例えば、破産とはどういうイメージがあるでしょうか?

 多くの人が破産というと暗いというイメージを持つようです。

それでは再生はどうでしょうか? 

ほとんどの人が明るいイメージを持つようです。  

しかし、実はこれはあなたが、自分が相手ならばきっとこう思うだろうな、というものを表しているに過ぎません。

もしかすると相手は逆のことを考えているのかもしれません。

再生とはこのように、あなたが体験してもいないものを考えている心象風景にすぎません。

問題はこの心象風景が崩され始めた時に、あなたがどう感じるかなのです。

きっと心象風景通りにはいきません。

では、違ったからといって逃げるわけにもいかないでしょう。

だから、あらかじめ現実は違うだろうという認識も必要なのです。