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企業倒産は誰のせいでもない

考えてみれば、人間の寿命なんてものは長くても百年程でしょう。そして、社会人として社会に出て、働いている期間は四十年程です。

人間がどういう活動をしているか、どんな企業でどんな職種についているかなんて事は、まずは生まれた環境によって異なります。

一部上場企業の社長の長男で生まれるか、普通のサラリーマンの家庭の末っ子に生まれる、という様な事も関係があるかもしれません。

しかし、それは生まれた人間の責任ではありません。そして、あえて言うならば、社会に出た時の状況も、生まれた人間の責任ではありません。

 

戦後から昭和三十年代の高度成長期に、社会人として世に出た場合なんて、まだまだ何もないわけです。

現在のような風俗も文化もありません。何もないから皆、ただ黙々と働いたのです。働くことが生活の大部分でした。

同じ様に、バブル期に社会人として活動していた場合、また、バブル後の不況の時代に社会人を迎えた場合、それぞれ状況や環境が異なるのです。

だから大きな流れで見れば、企業の倒産はそういう社会事象の上での結果だったとも考えられるのです。

 

つまり、企業が倒産したとしても、社長だからといって、倒産の責任を一身に受け止める義務はないのです。責任は社長にだけあるのではありません。

社員にも責任があるかもしれない。また、時代の流れでその業種自体がよくない環境だったかもしれない。

記憶に新しいところで、アメリカのリーマンブラザーズの倒産が日本にまで波及しました。その影響で企業が倒産したとしても、リーマンが破綻することを予想できた人間が果たしてどれだけいたでしょうか?

つまり、業績悪化や倒産は、社長の責任ではないケースもあるのです。もちろん社員のせいでもありません。これは、そういう時代の流れだったのでしょう。

それを我々が見ぬけなかったというだけのこと。これを社長に経営者責任といって追及しても仕方のないことですね。

人間は得たものは捨てられない。

今の生活を捨てられないのです。昨日の自分と今日の自分とが違うことに気が付きません。毎日が同じ一日と思っています。そして同じ一日がこれからも続くと信じています。人は良いことがあれば、それに執着するのですね。

 

こう考えると、悠久の時の流れの中で人間がいくら頑張っても、太刀打ちできないことが沢山あります。 企業倒産は誰のせいでもなく、自然の流れだったということも有り得るのです。

再生は決断にあり!

再生しようと思ったときに、いかに素早く決断が出来るかということです。経営に行き詰まり、もうあがいても駄目だと思った時、例えば創業者なんかは、「俺の人生の全てだった会社なんだ。潰すわけにはいかない」とか言いだして、小さくなってもいいから会社を存続させようと考えます。

 

 しかし、これは逆なんですね。そんな素早く止めるのです。ぱっと決断するのです。それまでの自分の人生をリセットするんです。えい、やっと、そのように考える心の手を離しましょう。今までやってきたことは失敗だったと、自覚するんです。そしてへたり込むんです。一度立ち止まってあたりを見回してみる。そうすると、いつもと違う風景が見えてきます。

そうして、再びプレッシャーを背負って再出発する覚悟を決めるのです。

再生とは自己の心象風景である

例えば、破産とはどういうイメージがあるでしょうか? 多くの人が破産というと暗いというイメージを持つようです。

それでは再生はどうでしょうか? ほとんどの人が明るいイメージを持つようです。

 

 しかし、実はこれはあなたが、自分が相手ならばきっとこう思うだろうな、というものを表しているに過ぎません。もしかすると相手は逆のことを考えているのかもしれません。

 

再生とはこのように、あなたが体験してもいないものを考えている心象風景にすぎません。

 

問題はこの心象風景が崩され始めた時に、あなたがどう感じるかなのです。きっと心象風景通りにはいきません。では、違ったからといって逃げるわけにもいかないでしょう。だから、あらかじめ現実は違うだろうという認識も必要なのです。

企業倒産は誰のせいでもない

考えてみれば、人間の寿命なんてものは長くても百年程でしょう。そして、社会人として社会に出て、働いている期間は四十年程です。                                        

人間がどういう活動をしているか、どんな企業でどんな職種についているかなんて事は、まずは生まれた環境によって異なります。

一部上場企業の社長の長男で生まれるか、普通のサラリーマンの家庭の末っ子に生まれる、という様な事も関係があるかもしれません。しかし、それは生まれた人間の責任ではありません。そして、あえて言うならば、社会に出た時の状況も、生まれた人間の責任ではありません。

 

戦後から昭和三十年代の高度成長期に、社会人として世に出た場合なんて、まだまだ何もないわけです。現在のような風俗も文化もありません。何もないから皆、ただ黙々と働いたのです。働くことが生活の大部分でした。

 

同じ様に、バブル期に社会人として活動していた場合、また、バブル後の不況の時代に社会人を迎えた場合、それぞれ状況や環境が異なるのです。

 

だから大きな流れで見れば、企業の倒産はそういう社会事象の上での結果だったとも考えられるのです。

 つまり、企業が倒産したとしても、社長だからといって、倒産の責任を一身に受け止める義務はないのです。責任は社長にだけあるのではありません。社員にも責任があるかもしれない。また、時代の流れでその業種自体がよくない環境だったかもしれない。

 

記憶に新しいところで、アメリカのリーマンブラザーズの倒産が日本にまで波及しました。その影響で企業が倒産したとしても、リーマンが破綻することを予想できた人間が果たしてどれだけいたでしょうか?

つまり、業績悪化や倒産は、社長の責任ではないケースもあるのです。もちろん社員のせいでもありません。これは、そういう時代の流れだったのでしょう。それを我々が見ぬけなかったというだけのこと。これを社長に経営者責任といって追及しても仕方のないことですね。

 

人間は得たものは捨てられない。今の生活を捨てられないのです。昨日の自分と今日の自分とが違うことに気が付きません。毎日が同じ一日と思っています。そして同じ一日がこれからも続くと信じています。人は良いことがあれば、それに執着するのですね。

 

こう考えると、悠久の時の流れの中で人間がいくら頑張っても、太刀打ちできないことが沢山あります。

企業倒産は誰のせいでもなく、自然の流れだったということも有り得るのです。

企業倒産とは、社員が「自分の給料を稼いでいない」ことをいう

私が倒産しそうな会社に行くと、よく社員達が、

「社長が悪い、悪いのは社長だ」と連呼しています。私は彼らに、

「そうじゃないだろ、君たちの給料も高かったんじゃないのか」と言い返します。

外部から見るのでよく分かるのですが、倒産する会社は、社長だけが悪いということはまずあり得ません。社員にだって責任があるのです。

 

これは大きな会社になればなるほどそうなのですが、皆、給料日になれば自動的に給料が貰えると思っている。社長や重役がお金を会社に持ってきてくれるのだと思っているんです。

違うでしょう。

 

社員全員が、社員一人ひとりが、金を稼がなくてはならないという気構えがなければならないのです。皆、勘違いをしています。

そのところを社員だって反省をしなければなりません。社員一人ひとりが自分の給料を稼いでいれば、絶対に倒産なんて起こりえないのですから。

これからでも遅くはない

不渡り手形をつかむと、とたんに資金繰りに支障をきたす。当てにしていたお金が入らなくなるからだ。体力のあるうちなら未だよい。売上が落ち込んでくると一枚の不渡手形が、致命傷になり自社も、不渡手形を出す羽目になってしまう。

取引銀行は良く知っていて、自行の取引先がこんなにも、不渡手形をもらってしまっては、資金繰りに詰まらない筈がない、と考える。ここからが社長の正念場だ。誰しも倒産などということを考えたくもない。

社長の仕事が「資金繰り」、ということになってしまい本来の社長の業務に身が入らなくなる。

嘘や虚偽の報告をすると、企業は倒産の道を転げ落ちるだけとなる。誰も助けてくれない。近寄ってくるのは、会社を食ってやろうと虎視眈々と狙っている、悪い輩ばかりとなる。

これではいけない。会社経営とは何か、を社長が忘れてしまっているからだ。会社が生き延びれば良いというものではない。

真面目に経営に取り組むチャンスがやってきた、と思うことだ。資金繰りが楽になってから、事に当ろうと考えないことだ。

「学道の人は後日を待って行道せんと思ふ事なかれ。」(仏道を学ぶ人は、後日を待って仏道修行をしようと思ってはならない。正法眼蔵随聞記・水野弥穂子訳 ちくま文芸文庫)。

仏道でも経営道でも同じことである。