覚悟とはこういうものですー老田久之助の場合

老田久之助は長岡藩藩士で殿の秘蔵人だった。この久之助が心惹かれる藩士がいた。偏屈人として知られた鬼頭図書という者である。久之助は図書に会えば何か得るものがあるだろうと思いながらも、よい折りもなく年月が過ぎて行った。そうこうするうちにある時、下城の際に久之助は図書の家を訪れる。

久之助は、図書に会い、まず型どおりの挨拶をした。

「かねてより、お訪ねしたかったのですがつい、今までよい折がなかったもので」 「それならそう思ったときにすぐに来るべきであろう。人の命は明日を待たぬぞ」

図書の言葉は厳しかった。

久之助はその後、図書に問い詰められる。

図書は久之助に問いかけた。

「さむらいのご奉公とは何か」すると久之助は、 「一身一命を捧げるところから始まると存じます」 と、答えた。図書は言う。

「口で言うのは易しい。いつ何時でも身命を捧げられるのか」 また、 「実際にそれを活かしているのか」  と追及する。

久之助は、「それは口ではお返事のいたしようがありません」と答えた。

普通なら、「そうしているつもりです」と答えるところだったろう。

図書の追及は続く。

「武士の性根は剣に現れるから、真剣勝負にて、その性根をみてやる」 と言い出し、久之助は図書と真剣を抜き合わせる羽目になる。 すると、図書が言い出す。

「待て待て、立ち会いは明日にしよう」

久之助は不思議に思う。なぜだろう。何故、今、立ち会わないのだろう?

「……そこもとにも始末すべきことがあろう。人に見られては困る文書、仕残した用、片付けなければならない物もあるだろう。今宵、その始末をして来られい」

図書のその言葉に、久之助はそうだ、そうだ、身の回りの始末をしないでは死ぬに死ねない、と思った。 そして、久之助は帰宅すると夜半過ぎまでかかって、身辺を片付ける。 これで死んでも悔いはない、そう思ってひと眠りし、水浴びをした後、定められた時刻に再び図書宅に向かい、立ち会おうとした。 すると図書はその必要はない、といって飯をご馳走してくれる。

しかし、真剣を抜き合わせはしないが、図書の久之助に対する一言一言は相変わらず厳しい。

「……お主君のため、藩のためには、いつ何時でも死ぬ覚悟だ、と口では誰でもそう言うが、家常茶飯、事実の上でその覚悟を活かすことは難しい。昨夜、そこもとは身命を上に捧げたと言った。おそらくその言葉に嘘はないだろう。覚悟もたしかなものに違いない。 だが、実際にはその覚悟を活かしてはいなかった。……他人に指摘されて、急ぎ始末をしなければならぬような物を、身の回りに溜めておいた。死後に発見されては身の恥になるような物さえ、始末せず、ただ覚悟だけでいつ死んでもよいと決めたところで空念仏にすぎない。そうではないか」

さらに、

「いま庭先で、すぐ相手をしようとそこもとは言った。これは身の回りをきれいに始末してきたから、もう死んでも悔いはないという気持ちなのであろう。それでこそ初めて『いつ何時でも命を捧げる』ということが出来るのである。さむらいの鍛錬は家常茶飯のうちにある。拭き掃除、箸の上げ下ろし、火桶への炭のつぎ方、寝ざま起きよう、日常生活の中に性根の鍛錬があるのだ。そのような油断がなければ、改めて覚悟せずとも奉公の大事を誤ることはないのである」

以上は山本周五郎の短編『油断大敵』からの引用である。これは昭和二十年の作品。国民すべてが明日をも知れぬ状況であったから、老田久之助に「死の覚悟」を求めることが出来たのであろうか。

「死の覚悟」とまでいかなくても、企業再生、人生の再生を願うなら、せめて普段とは違う「覚悟」をしてもらいたいと思うのである。