世の中に、役に立たない会社というものはない

人間はすべて平等です。これと同じく、会社もすべて平等なのです。職業に貴賎がないように、企業にも差別はないのです。

 物を作る会社があり、それを売る会社がある。

物を引き取り、配る会社もあれば、物が壊れたら直す会社がある。

また、物が売れなくなったら、新しいアイデアで新しい物を作る会社が出てくる。

売れたお金を集金する会社もあれば、代金を払わない人から徴収する会社もある。

つまり。どの会社が欠けても物事はうまく回らないのです。

役に立たない会社というものが無いとはこのことです。

しかし、稀に微妙な会社もあります。例えば闇金といわれる法律違反の条件で金を貸している会社がある。 悪いことは悪い会社です。

しかし、その一方、銀行から金を借りられない人々が最後の手段として頼ってくるのもまた事実です。  これはどう考えればいいのでしょう? 

もちろん闇金は違法です。本当は決して利用してはいけません。

明らかに法律上はルール違反なのです。

しかし、明日の米が無い場合、それでも借りるなと言えるかどうか。

そういう会社が存在しているということは、何らかの存在意義があるということでもあります。

また、闇金を行っている会社も、役に立っているという意識があるのかどうかは知りません。 違法であるとか、道徳違反であるとか、ということは人間が作ったルールです。

この世に存在するすべての事物は存在意義があるから存在しているのです。

少なくとも、会社として営業をして来たあなたの会社は、世の中に役立ってきたのです。

しかし、何らかの理由で資金が回らなくなったのですから、回るように考えれば良いだけです。

上手なひき時―再生可能な時期(タッチ&ゴー)

会社の倒産や再生は、自分の事業継続を続けるにはここら辺が山だ、と考え決断しますが、その結果は後日にしか出ません。

 

「あの辺りでやめておけば良かった、もう少し続けておいた方が良かった」と言っても、後の祭り。

「まだはもうなり、もうはまだなり」だったのです。

法的に言えば、破産宣告は事業を停止し、その時までの積極および消極財産を清算し、債権者にその額に応じ、残余財産を配当する手続きです。

空をとんでいた飛行機が、地上に降り立ちそのまま停止する、ことに譬えられます。

飛行機が着地しても、そのまま停止し、もう空を飛ぶことをやめた、即ち、エンジンを止め機体を停止する、とは限りません。

一旦、着地したがそのまますぐに飛び立つ、ことがあります。

これを、タッチ&ゴーと言います。 再生は、航空機のタッチ&ゴー、に譬えられます。 また再びすぐに、空に飛び立とうとするのであれば、一旦の着地は、その心構えと準備を持ってするものでなければなりません。

そうしないと、再び直ぐには飛び立てません。

航空管制官をはじめとする人達の協力がなければ空を飛ぶことができないからです。

事業も同様です。 従業員、取引先、金融機関、株主、親戚・知人友人、税務署や市町村等の関係者の理解が得られなければ再生はできません。

企業の再生は、社長が、会社という飛行機のパイロットとして、タッチ&ゴー、という再生をするわけですから、その成否は社長の技倆にかかっています。

パイロットがタッチ&ゴーの場合、着地はどうすればよいか等、さんざん教官から習った筈です。 社長もその地位につくまで、企業規模の大小を問わず、社長としての座学、実践を積んだ筈です。

タッチ&ゴーの場合の着地の仕方、すなわち再生するため、直ぐ再び飛び上がるための上手な引き際、は企業のパイロットである社長の心の中にあります。

上手・下手というのは第三者の評価であって、当事者本人のものではありません。

自分が何時、当事者本人の立場になるかも知れませんので、常日頃から、第三者の言動に習っておけばよいのです。

上手な引き際は、自分の心の中にしかありませんので、自分が「この時だ!」と決心した時が上手な引き時です。

救世主(メシア)は一度は必ず現れるが、二度は現れない

倒産し、再生しようとするときには、不思議なことに、必ず救世主が現れます。

しかし、この救世主が誰なのか、なかなか分からないものなのです。

それは、弁護士かもしれません。また、会計士かも知れない。

もしかしたら、すぐそこにいる社員なのかもしれない、奥さんかもしれない、あるいは取引先の社長なのかもしれません。

 

 その人は再生しようとするあなたに対して、とても良いアドバイスをしてくれるのです。

あなたはその人の話に真剣に取り組まなくてはなりません。

経営の方針から、心の持ち方まで、その人は、いろんなアドバイスを話してくれます。 「これを売ればいい」、「そんなもの支払われなくてもいい」、「こういうやり方に変えましょう」……。  等、様々なことを言います。  

 

この人こそ救世主(メシア)なのですね。 救世主は必ず一度は現れます。そして、この救世主は二度は現れないのです。   

 

そう、再生するチャンスは一度だと思わなければならないのです。

往生際の悪い社長はすべてを失う

これは社長が創業者である場合に、よく起こりえるケースなのです。

本業は黒字なのに、副業で始めた土地取引等で負債を背負い、会社の運営が困難になってきたとします。

銀行や金融機関は土地等を売却して、負債額を減らそうとしますが、社長がどうしても許可しません。

創業者で株式を半分以上持っている社長は、強い権限を持っているのです。

負債整理はいっこうに進まないし、退職する社員も出始めても破産宣告をしていないので、財産管理処分は社長の同意が無ければ手を出せないのです。

手形の不渡りを出しても、銀行取引が停止になるだけで、社長の権限が制限されるわけではありません。

債権者としては土地などを売却したいのですが、破産宣告が無いので、社長の反対があればそんなことは出来ません。

 

しかし、このままでは銀行側から破産の申し立てが行われ、社長は、宣告時に有していた財産は全部失うことになります。

破産管財人が社長に同情して、家や土地を残してやろうとしても、もう出来ません。破産手続きというものは、ある意味で、血も涙もありません。

 

 しかし、社長が個人財産などいっさいを投げ打ち、負債の整理をしようとした場合は、銀行も、社長の老後のために少しの糧と家や土地ぐらいは残してくれるでしょう。

 社長は財産に対してのみならず、自分の事業にも諦めをつけましょう。

いつまでも会社の事業等が、自分の力で築き上げた財産なのだと思っていては、どうしようもありません。

往生際が悪い社長は、結局は破産して汚名を残すのみになってしまうのです。

覚悟とはこういうものですー老田久之助の場合

老田久之助は長岡藩藩士で殿の秘蔵人だった。この久之助が心惹かれる藩士がいた。偏屈人として知られた鬼頭図書という者である。久之助は図書に会えば何か得るものがあるだろうと思いながらも、よい折りもなく年月が過ぎて行った。そうこうするうちにある時、下城の際に久之助は図書の家を訪れる。

久之助は、図書に会い、まず型どおりの挨拶をした。

「かねてより、お訪ねしたかったのですがつい、今までよい折がなかったもので」 「それならそう思ったときにすぐに来るべきであろう。人の命は明日を待たぬぞ」

図書の言葉は厳しかった。

久之助はその後、図書に問い詰められる。

図書は久之助に問いかけた。

「さむらいのご奉公とは何か」すると久之助は、 「一身一命を捧げるところから始まると存じます」 と、答えた。図書は言う。

「口で言うのは易しい。いつ何時でも身命を捧げられるのか」 また、 「実際にそれを活かしているのか」  と追及する。

久之助は、「それは口ではお返事のいたしようがありません」と答えた。

普通なら、「そうしているつもりです」と答えるところだったろう。

図書の追及は続く。

「武士の性根は剣に現れるから、真剣勝負にて、その性根をみてやる」 と言い出し、久之助は図書と真剣を抜き合わせる羽目になる。 すると、図書が言い出す。

「待て待て、立ち会いは明日にしよう」

久之助は不思議に思う。なぜだろう。何故、今、立ち会わないのだろう?

「……そこもとにも始末すべきことがあろう。人に見られては困る文書、仕残した用、片付けなければならない物もあるだろう。今宵、その始末をして来られい」

図書のその言葉に、久之助はそうだ、そうだ、身の回りの始末をしないでは死ぬに死ねない、と思った。 そして、久之助は帰宅すると夜半過ぎまでかかって、身辺を片付ける。 これで死んでも悔いはない、そう思ってひと眠りし、水浴びをした後、定められた時刻に再び図書宅に向かい、立ち会おうとした。 すると図書はその必要はない、といって飯をご馳走してくれる。

しかし、真剣を抜き合わせはしないが、図書の久之助に対する一言一言は相変わらず厳しい。

「……お主君のため、藩のためには、いつ何時でも死ぬ覚悟だ、と口では誰でもそう言うが、家常茶飯、事実の上でその覚悟を活かすことは難しい。昨夜、そこもとは身命を上に捧げたと言った。おそらくその言葉に嘘はないだろう。覚悟もたしかなものに違いない。 だが、実際にはその覚悟を活かしてはいなかった。……他人に指摘されて、急ぎ始末をしなければならぬような物を、身の回りに溜めておいた。死後に発見されては身の恥になるような物さえ、始末せず、ただ覚悟だけでいつ死んでもよいと決めたところで空念仏にすぎない。そうではないか」

さらに、

「いま庭先で、すぐ相手をしようとそこもとは言った。これは身の回りをきれいに始末してきたから、もう死んでも悔いはないという気持ちなのであろう。それでこそ初めて『いつ何時でも命を捧げる』ということが出来るのである。さむらいの鍛錬は家常茶飯のうちにある。拭き掃除、箸の上げ下ろし、火桶への炭のつぎ方、寝ざま起きよう、日常生活の中に性根の鍛錬があるのだ。そのような油断がなければ、改めて覚悟せずとも奉公の大事を誤ることはないのである」

以上は山本周五郎の短編『油断大敵』からの引用である。これは昭和二十年の作品。国民すべてが明日をも知れぬ状況であったから、老田久之助に「死の覚悟」を求めることが出来たのであろうか。

「死の覚悟」とまでいかなくても、企業再生、人生の再生を願うなら、せめて普段とは違う「覚悟」をしてもらいたいと思うのである。

破産宣告はそれ以上でもそれ以下でもない

この世は取引社会です。取引社会はお互いの信頼関係に基礎をおいています。

例えば、売買とは売主が買い主に商品を引き渡し、買い主は代金を売主に支払います。

このとき、商品を先に渡して、売主は買い主から約束した期日に代金の支払いを受けられると信頼します。

しかし、ここで、買い主が支払わないという事態が起きたとします。

これは大変なことになりました。

経済取引の秩序が乱れてしまったのです。

 

このように、事業を行うものが約束を守らなければ、経済秩序が乱れます。

自己負担している債務を継続的に支払えないと自分が考え、他人もまた考える状態に陥ったのが破産者です。

つまり、破産宣告を受けるということは、通常の経済取引の社会からの脱落を意味します。以前のように自由な意志に基づく、仕入れや売却などは認められません。

破産者は経済取引秩序の前提となっている、約束を守るという基本的秩序を破壊したのですから、実業界より脱落した者として取り扱われても仕方ありません。

一方、破産宣告を受けても、そのこと自体は、それ以上でもそれ以下でもありません。破産者になったからといっても、人間が代わるわけでもありませんし、命をとられるものでもありません。

しかし、そういう風に割り切れないのが人間です。

破産すると、この世が終わるとまで考えて、自ら命を絶ってしまう人さえも出てしまうことがあります。 こういうことだけは避けなければいけません。

こういう時の為に我々弁護士などの専門家がいるのです。専門家の意見を聞いて、淡々と処理しましょう。

自分の人生に責任を持つのです。投げ出してはいけません。

破産なんて気にせずに、また頑張って復活するんだという気概を持つべきです。

やる気さえあれば、誰でも出来ることなのです!

再生は決断にあり!

再生しようと思ったときに、いかに素早く決断が出来るかということです。

経営に行き詰まり、もうあがいても駄目だと思った時、例えば創業者なんかは、「俺の人生の全てだった会社なんだ。

潰すわけにはいかない」とか言いだして、小さくなってもいいから会社を存続させようと考えます。  しかし、これは逆なんですね。そんな素早く止めるのです。

ぱっと決断するのです。

それまでの自分の人生をリセットするんです。

えい、やっと、そのように考える心の手を離しましょう。今までやってきたことは失敗だったと、自覚するんです。そしてへたり込むんです。

一度立ち止まってあたりを見回してみる。そうすると、いつもと違う風景が見えてきます。 そうして、再びプレッシャーを背負って再出発する覚悟を決めるのです。